1950-04-13 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第25号
○津村証人 大正十一年十一月十七日生れ、昭和十八年十二月盛岡の第六航空教育隊に入隊、昭和二十年十月十七日ナホトカに上陸、昭和二十三年六月一日舞鶴に上陸、以上です。
○津村証人 大正十一年十一月十七日生れ、昭和十八年十二月盛岡の第六航空教育隊に入隊、昭和二十年十月十七日ナホトカに上陸、昭和二十三年六月一日舞鶴に上陸、以上です。
○津村証人 現在無職です。年は二十七。数え年で二十九です。
○津村証人 そうです。
○津村証人 今止めたら変ではありませんか。
○津村証人 今のところで止めるのですか。
○証人(津村謙二君) それではお答えいたします。小針君に関しましては、彼は昭和二十二年の一月にナホトカに参つております。その際に私はナホトカにおりまして、第一回の昭和二十二年の一月に船が出て行つたあとナホトカに残つておつたのであります。こうして小針君一行の部隊をあのナホトカのその第三百八十收容所にお迎えをいたしました。それから私達、元からあのナホトカにおつたところの大隊は、第一次大隊といたしまして、
○證人(津村謙二君) 人民裁判という言葉は、日本に帰つてから初めて耳にしたことであつて、これはさつき阿部証人もお話の通り兵士大会であります。
○證人(津村謙二君) 第四收容所の管理部長、こういうものを私はやつておつたのであります。私は、あのナホトカの收容所の際には四つ收容所はありますけれども、その責任者としてやつておりました。